<かつて富高エリアに存在した映画館の、位置や特徴をまとめたページです。>
日向・富高地域では、まず大正15年に町営文化ホールとして「富美館(ふうびかん)」が出来ました。この戦前使われていた名前で憶えているのは相当高齢の方でしょう。おそらく、戦中から戦後しばらくまで長きにわたり使われた「福興館(ふっこうかん)」の名前で親しんでいる方が最も多いかもしれません。この施設は商店街の表通りではなく国鉄線路側に近い位置、やや引っ込んだ場所に建てられていました。(ゆえに、めぼしい写真が残っていません。)大きな木造建築で、2階部分には畳敷きの観客席があったりと芝居小屋の雰囲気がありました。完成当初、一階部分に客席は無く、床板にムシロを敷いただけの粗末な作りでありノミもたくさんいたようで、ここで芝居や映画を見た客が帰宅すると家にノミが発生し、そのことで家族は富美館へ行ったのだろうとすぐにピンときたそうです(参考文献:「日向市の歴史」)。
郷土史家の河野氏が某誌に寄稿した一文によると、大正末期の富高には昼間から映画を上映する施設が無く、流行りの映画は延岡へ見に行くことも多かったとのことです。昭和初期の「富美館」時代は、映画の上映だけでなく芝居小屋としての側面も大きく、映画だけが頻繁にかかっているわけではなかったようです。その昭和ヒトケタ時代は無声映画の全盛期で、活動弁士(活弁)と呼ばれる解説者が必要でした。(地元の古老の中には、この館で弁士による面白おかしい解説と共に映画を鑑賞したことを懐かしく思い出す方もおられます)。トーキー(発声映画)自体は存在したと思われますが、機材の導入などの課題もあり、我が富高地域での普及は都心部からかなり遅れて昭和10年前後、あるいはそれ以降であったのではないかと考えられます。
「町営」だった頃の富美館は、芸能・文化関係に限らず様々な用途に幅広く利用されていたようです。養蚕が盛んだった昭和初期は乾繭場(かんけんじょう/または乾繭倉庫)として利用されることも。また昭和10年代半ばになると軍関係の集会の会場として使用されたこともあったようです。その頃は既に「福興館」と名前が変わっていました。
戦後、自由な表現や斬新な創作活動の場として、福興館はますます多くの市民に利用されるようになります。伊達バレエの披露会といった高尚な舞台から、学生あるいは市民団体によるアマチュア演奏会開催など、その内容も多彩になり、文化の発信拠点として存在感を高めていきました。
映画は戦前から上映されていましたが、戦後になるとますます需要が高まっていきました。映画館が足りない、そんな娯楽を求める町民の期待の声を受けて、町議らの肝入りで昭和24年末に建てられたのが「富島映画劇場」(のち日向映劇)でした。教育の一環として、教師の引率のもと小学生らがここで「許可映画」と呼ばれる道徳映画をクラス単位で観覧することもしばしばでした。
昭和30年代に入ると、いよいよ数が増えてきました。「有楽劇場」「記念館」が日向映劇の周辺に建設され、銀座通りは3軒の映画館が30メートル間隔で立ち並ぶ激戦区となりました。
昭和33年オープンの「宝塚劇場」では、シネスコと呼ばれる当時最先端の映像技術が導入され、そのワイドな画面に観客は度肝を抜かれました。ここでは30年代後半になると深夜帯の上映(レイトショー)も実施しています。
駅の西口方面のエリアにおいて、これまで映画館は駅にほど近い上町や都町にばかりありましたが、昭和36年ようやく中町にも「文化会館」(日向文化)という映画館ができました。江戸時代からあった幸福神社を移転して、その跡地に完成しました。商店街の活性化を願う商店主の皆さんによる熱心な誘致活動が実ったもので、オープン当日は商店街全体に万国旗を飾り付けて歓待したところ、オーナーさんが「他にも幾つか映画館を持っているが、これほど歓迎されたのは初めて」と大いに感激されたとのことです。
最盛期の昭和37年には、富高駅からわずか半径300メートル以内に、なんと6館がひしめきあって営業していました。そうした供給過多の悪影響と、新興勢力・テレビジョンの台頭によって日向の映画館の勢いは徐々に衰え、昭和40年までにその館数は半分にまで減りました。昭和40年代から50年代にかけては、グランド劇場(※宝塚劇場のリニューアル店舗/日向グランド映劇)が日活の成人向け映画中心の内容となるなど、試行錯誤の中での営業であったと思われます。昭和58年頃に日向グランド(&テアトル日向)と日向文化が相次いで撤退、後発組として頑張った日向シネマもほどなく閉業し、昭和60年には日向市内から映画館がついに1軒もなくなりました。
それからしばらくは、有志による市民団体が映画の灯をなくすまいと、中央公民館で定期的な上映会を開くなど精力的に活動されたようです。あんがい見逃されがちですが、昭和56年に出来た「日向市中央公民館」はそれまでもたびたび単発ではありますが映画を上映してきており、実は開設当初より地味ながら映画館の役割を果たしていたことは特筆すべきでしょう。(※昭和50年代後半~60年代に「はだしのゲン」や「対馬丸-さようなら沖縄-」といった当時新作のアニメ映画が一日限定で上映されたりしました。)
昭和62年10月、駅の北西にあった広大な敷地にアスティ日向寿屋がオープン。その3階部分にシネスクリーンのビデオシアタールームが2つ出来ました。これまでのような単独店舗ではありませんが、再び日向に映画館が戻ってきました。(のち、平成6年からアスティ1のみで営業)。平成12年まで十数年にわたり、日向地域に映画文化を伝えてくれたのでした。
(終わり)
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(1)富美館(→福興館 →日向東映)
(2)富島映画劇場(→日向映劇)
(3)有楽劇場(または有楽映劇)
(4)宝塚劇場(→日向グランド映劇 、のちテアトル日向(実演)を増設)
(5)記念館(または日向記念館) ( →日向東宝記念館)
(6)文化会館(または日向文化)
(7)日向シネマ
(8)ASTY日向寿屋 シネスクリーン(ASTY-1,ASTY-2)
ー終わりー
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