【富高地域のパン事情(戦前・戦中・戦後)】

<戦前までのパン 事情>

●まず、日向市のご近所・延岡の事情をみていきます。若山牧水に関する著述をまとめた本「創作」第102号に、塩月眞氏が寄稿された一文があります。そこには牧水が延岡中学校の学生だった頃に、同級生と共にアンパンを食べたエピソードが記されています。実家から仕送りの臨時収入を得て、懐があたたかくなった牧水が、プチ贅沢として選んだスイーツがアンパンだったようです。

『(前略)中町のアンパン屋に行った。食い盛りの彼らの手っ取り早い散財はアンパン食いだった。仲間うちでは「アンパン攻撃」と言った。東京・銀座の木村屋がアンパンを売り出したのが明治八年。延岡でもすでに木村屋に劣らぬうまいアンパンがあった。』(「創作 平成27年5月号」より引用)

牧水が延中生だったのは明治32年から37年にかけてですが、このアンパンの逸話は彼が17歳の年(明治35年)のお話です。店名は不明ですが、明治後半すでに延岡にはアンパンの製造・販売店があり、人気を博していたことがうかがえます。

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●その頃、日向地域はどうだったのか、古老に尋ねてみましたが、明治・大正・昭和初期のパン事情についての詳細は不明です。戦前までの日向地域には、常設店舗としての「パン屋さん」は無かったのかもしれません。とはいえ、富高町民がパンを知らない、食べたことがない、ということは無かったと思います。

昭和の中頃までは、美々津をはじめとする他の地域からリヤカーに野菜や魚など食料品を積んできて売り歩く行商人が盛んに往来していましたので、そうした移動販売の方々から買う機会があったかもしれません(※戦後ですが昭和20年代後半、自転車によるパンの移動販売が新町に売りに来ていたとの話があります)。また一部の食料品店、菓子店でパンの委託販売があった可能性もあります。(※戦後ですが中町の石川さんがやっていた駄菓子屋でパンも少し売っていたとの話があります。)

先に述べたように、延岡では明治時代に既にパン屋さんが存在していました。仕事や学校の都合で延岡~日向間を行き来していた人は多くいたと思われるので、彼らは現地・延岡で食べていたかもしれませんし、おみやげとしてパンを日向に持ち帰ることがあったかもしれません。しかし、いずれにしろこれらはあくまでも想像の域を出ません。


<戦時中のパン 事情>

●昭和17年、世の中が配給制度だった戦時中を河野重喜氏が回顧した一文があります。「パン屋の前も行列だった」。この描写が日向の事なのか、あるいは延岡など他の地域の事なのかは不明です。ここにある「行列」というのは、人気のある店に売れ筋の商品を求めて並ぶ~という現代の「特別感のある」風景とは意味合いが異なり、『配給所』として指定されたお店に配給物資(日々の生活必需品)を求めて並ぶ~という、戦中および終戦直後によくみられた「日常生活の一部」としての風景をあらわしたものといえます。

●パン(ブレッド)ではありませんが、非常食としての「カンパン」(ビスケット)が戦時中に作られていました。これは慢性的な物資不足のさなか、幾つかの「和菓子屋さん」が苦労しながら手掛けていた商品でした。例えば当時中町にあり、平時なら飴や落雁などを製造販売している菓子店「寺原明月堂」(てらばる めいげつどう)がカンパンを作っていたといいます。客はそこで一週間分程度の量を入手して缶に入れて持ち帰り、自宅に保管しました。また、同じく当時は中町にあった和菓子店「三日月堂」も、近所の「まるや」のご主人から頼まれてカンパンを製造しています。ご主人は、作ってもらった やや塩気のあるカンパンを、一斗缶に詰めて非常用として取っておくつもりでしたが、帰宅するや否や、子供達にたちどころに食べられてしまったのでした。おやつといえば、「ふかしイモ」程度しかバリエーションの無かった時代に、カンパンは滅多に味わえない珍しいお菓子として子供達の目に映ったのだと思われます。(※なお戦後に上町へ移転した三日月堂は、そこでパンの製造・販売を手掛けており、昭和30年代~40年代頃はコッペパンなど人気だったそうです。)


<終戦直後のパン 事情>

●戦後になり、食料事情が回復してくると、富高地域にもようやく本格的なパン屋さんが幾つか出来始めました。富高新町のメインストリートにあった まるや の南隣に「みすずパン」、さらにその隣には延岡から来た方が始めた「木村家(きむらや)パン」が出来ました。このように昭和20年代の一時期、中町エリアに2つのパン屋さんが並んで営業していました。当時の国道(現・県道226号)に面した店舗はパンの店頭販売所で、その裏側に製造工場がありました。みすずパンの経営者は元々関東方面から来た方で、20年代の終わり頃にUターンされたようです。また、概ね同じ頃に木村家パンも、よりよい環境を求めて本町へ移転しています。のちにこのパン屋さんは、昭和33年頃からスタートする市内の学校給食に提供されるパン・ご飯の製造を手掛けていくことになります。

●上記の2店が横並びにあった頃、中町の北寄りにあった和菓子店「国華堂」(こっかどう)でもパンを販売していました。昭和27年頃、アンパン1つ5円、3つまとめて10円だったそうです。ここから派生したのが「東京パン」(と、「河野菓子舗」)といわれています。東京パンは、日向市製作の昭和30年頃の商店街地図には初期の名称「河野製パン」として載っています。概ね昭和30年代から昭和50年代半ば頃にかけて、塩見橋の南袂(財光寺渡場地区)で営業していた人気店でした。アンパン、メロンパン、クリームパン等多くの種類を扱っていたとの事です。なお昭和50年代以降はその後継店が「ピーターパン」の名称で、上町(当初は「マルショク」の店内、のちにマルショクの横並びの店舗でも販売)や日知屋、また沖町(中丸商店の前)で営業していました。

(終わり)


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