古写真解説のページ(昭和14年頃の富高駅前通り)

詳細は不明ですが、「富高駅前通り」と題された絵葉書。昭和14年頃とおぼしき古写真です。こちらに写っている内容について、解説を試みていくページです。

※<自治体名の変遷>:富高村→富高町(大正10年10月~)→富島町(昭和12年10月~)→日向市(昭和26年4月~/現在)。

(1)【富高駅】:「富高町」時代の大正10年10月11日に開業。なお、岩脇駅(現・南日向駅)と細島駅も同日に開業しました。写真にあるのが初代の木造駅舎で、切妻屋根の和風建築でした。昭和27年にコンクリート製に改築され、白くて四角い近代的な外観となりました。(とはいえ本体は旧駅舎の建物を一部活用したものであったので、特に乗客が利用する「待合室」などは、初代駅舎時代の面影が色濃く残っていたといいます)。「富高駅」の駅名は長らく変わりませんでしたが、町の名前が「日向市」に変わって12年目の昭和38年に「日向市駅」へと改称されました。(※最下方に、駅名改称に関する補足を掲載)。

なお昭和当時、駅舎の南側にあった交番や歩道橋の近くに立っていた「イチョウの木」は、駅前で昭和4年から営業している老舗「鎌田食堂」(現・上海花園)の御主人が創業当時に寄贈されたものです。平成18年頃の日向市駅の高架化工事の際に現在の駅西口正面へと移動しましたが、植樹から90年以上を経て現在もなお日向市駅のシンボルツリーとして存在感を放っています。

(2)【源屋(みなもとや)旅館】:源屋旅館は大正13年頃の創業で、駅前にある旅館の中で先駆的存在の老舗旅館。腕の良い大工さんでもある経営者の方が、自ら建てたもので、3階建ての立派な木造建築でした。町内の数ある旅館の中でも格式の高さは随一で、身分の高い著名人が宿泊することもしばしばあったようです。また戦時中は、出征する男児がその親と共にここで親子水入らずの時間を過ごしたのち、富高駅前で万歳三唱の声に見送られて故郷を後にする~という光景も見られたとのことです。写真の3階建て旅館は昭和57年にいったん解体され、新たに5階建てのコンクリート製ホテルとして建て替えられています。

なお戦時中、この源屋付近に憲兵隊の詰所があったといわれています。また、その向かい側(鎌田食堂の西並びにあった宮崎商店付近)の建物には終戦直後の昭和21年に連合国の進駐軍が1年ほど滞在していました。

(3)【日の丸自動車(日の丸バス)】:大正10年創業の「林田自動車」(林田バス→のち「日向自動車商会」)と、翌11年に創業した「丸山自動車」(丸山バス)が、昭和5年に合併して出来たのが「日の丸自動車会社」(日の丸バス)といわれています。主に椎葉方面や延岡方面に向けて路線バスを走らせていました。戦時中はガソリンが軍事用車両を中心に供給されており入手困難であったため、バスを改造して木炭を燃料とした木炭自動車での運行を続けました。

写真のモダンな洋風建築は、「日の丸自動車」となった後に出来た本社の建物で、付近には待機中と思われるバスの姿も見られます。この建物は、終戦直前に日の丸バスが宮交に合併されて営業所が移転した後は貸しビルになったようで、終戦直後の昭和21年から昭和30年にかけて約10年ほど、中町から移転してきた「郵便局」が1階部分を局舎として利用していました(のち、旧富高小の講堂の建物へ移転)。2階部分は「電報電話局」が入居し、同じく昭和30年頃まで使用したのち、新国道(現在の国道10号線)沿いに新築した局舎へと移転しました。

日の丸自動車が100メートルほど西方向の敷地にバス車庫を作ったのが昭和16年ですが、その地は昭和20年3月に「日の丸自動車」が「宮崎交通」富島営業所(のち日向営業所)になった際に引き継がれ、戦後もそのまま宮交のバス発着場として多くの人々が利用しました。なお、その宮交バスターミナルは昭和40年代後半に駅東口方面(鶴町)へ移転し、都町のその跡地には昭和49年に大型ショッピングセンター「ユニード」が出来ました。現在は「コスモス薬品」都町店として賑わっています。

(4)【柏田タバコ店】:戦前から駅前通りのカドにあるお店。写真にチラッと写っている看板(「御菓子」の文字)にもあるとおり、当初はお菓子を中心とする食品、たばこ等を販売していたようです。昭和30年代辺りから柏田運動具店としてスポーツ用品を取り扱うお店となりました。

(5)【馬場時計店】:柏田タバコ店の東隣に写る、この駅前通りの店舗(時計宝飾店)は、昭和4年にオープンしたようです。実はそれより前の大正2年頃に「本店」が南町(岡村病院の近く)に開業しており、それが富高新町では最初の本格的な時計店だったといわれています。本店はその後(おそらく昭和に入ってから)、南町から上町(宮交バス発着場の向い)へ移転を完了しました。

(6)【ライオンカフェー】:写真集「日向写真帖」の中に出てくる「ライオン食堂」は、おそらくこのライオンカフェーのことかと思います。太平洋戦争の開戦が近づく中で、外国語は「敵性語(てきせいご)」なので排斥しようという動きが高まり、様々な外国語が日本語に置き換えられました。昭和15年頃にこの富島町(現・日向市)でもそのような運動があったようですので、その際に「カフェー」という言葉が「食堂」へ変更されたと考えられます。

なお、この昭和初期の「カフェー」という業態は、いま私たちが想像するような喫茶店やファストフード的なものではなく、現代でいえばバー、あるいはクラブといったものに近かったといわれています(いわゆる接客サービスのある飲み屋さん)。ただし、これは一般的なお店の話であり、この富島町の「ライオンカフェー」に関しては、当時を知る人も少なく証言に乏しいため、その実態がどのようなものであったのかは定かではありません。

※<注1>:「ライオンカフェー」とは関係ありませんが、「ライオン堂」という文具や事務用品を扱うお店があります。宮崎市にある本店が大正14年に創業していますが、当市で支店が営業を始めたのは戦後だといわれております。

※<注2>:富島町が発足した昭和12年当時に発行されたとみられる記念の絵葉書の中に、駅前の四つ角付近が写っている一枚があります。その中に「キリン食堂」(?)と読み取れるお店があります。また古老の話では、同じく昭和10年前後に、富高薬局の東側の並びに「キューピー堂」という店(文具店?)があったとの事です。いずれも戦後まで残っておらず、営業期間はそれほど長くなかったと思われ、その詳細は不明です。「ライオンカフェー」も含め、戦前における富高地域にはこうしたユニークなネーミングのお店が幾つか存在していました。

(終わり)


【参考・引用文献】

「日向市の歴史」甲斐勝/編著,日向市総務課市制二十周年事務局 1973

「日向市史 通史編」日向市史編さん委員会/編 日向市 2010

「日向市の年表」日向市史編さん委員会/編 日向市 2010

「日向写真帖 : 家族の数だけ歴史がある」日向市史/日向市史編さん委員会編, 別編

 日向市  2002

「移り変わる郷土と私」吉田幸保/著 1971

「広報ひゅうが 1963 6月号」日向市総務課広報係/編 1963

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<補足>【富高駅→日向市駅 への改称について】

昭和38年の駅名改称については、幾つかの説があるようです。まずは、ポイントを2点挙げてみます。

(1)なぜ市制施行から12年も経って駅名が変更されたのか(改称しなければならなかった理由はなにか)。

(2)なぜ「日向駅」ではなく「日向市駅」という名称になったのか。

駅名改称の謎については、上記の2点は分けて考えていく必要がありそうです。

さて、これらの疑問については、当時の市の広報誌「広報ひゅうが 1963 6月号」にその答えの片鱗がみられます。一部を抜粋してみます。『新産業都市指定問題、そして細島臨海工業地帯への工場進出と、日向市の名前は全国的に知れわたってきました。そこで市、市議会では日向市の表玄関である富高駅名も、この機に日向市に合った駅名に改称しようと国鉄に陳情していましたが、このほど富高駅が日向市駅に、岩脇駅が南日向駅と改称することになり(以下略)。』

・・・この昭和38年度初頭は、日向市の官民が一丸となって国に働きかけていた「新産業都市」指定獲得運動がヤマ場を迎えていた時期でした。(※新産都市指定の決定を受けたのが7月12日)。これから日向市を工業都市として大々的に売り出そうと、市民らは意欲に燃えていました。

 そのような日向市にある駅ですから、県北部の「玄関口」にふさわしい、風格のある新たな駅名にすることが望まれており、その声を汲んだ市議らの請願によって駅名の変更手続きがなされたようです。これが広報紙の記事から読み取れる(1)の理由です。

蛇足ですが、この変更当時、ささやかれていたもう一つの説があります。その頃、汽車が着く際に発せられる「富高~、富高~」という到着放送(駅名連呼)のアナウンスは、駅舎のある上町から、遠くはなれた中町あたりまでかなり大きく響いていたといいますが、その声を聞いたビジター(訪問者)から、富高とはどこのことなのか?日向市ならば日向市と言わなければおかしいのではないか~などと指摘されることが度々あったようです。そのような外部からの意見を受け止め、時代に即した名称へと変更した~という話もあります。

いずれにせよ、富高町から富島町になっても、また富島町から日向市になっても、駅名は変わりませんでした。昭和30年代になってようやく改称されたというのは、日向市民ののんびりした人柄をあらわすエピソードといえるかもしれません。

また(2)についてですが、「日向駅」という名称は、同名の駅が既に他の地域に存在していたことから、混同を避けるために当地域では「日向市駅」と”市”をつけた自治体名そのままの駅名となった~という説が有力のようです。(※この原則でいうと、同時期に改名した岩脇駅は「南日向駅」ではなく「南日向 ”市” 駅」になるはずですが、そうはなっていません。)<終わり>

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