古写真解説のページ(昭和10年頃の塩見橋付近)

古写真に写っているものは何か、分析を試みていくページです。

詳しい撮影年は不明ですが、おそらく昭和10年頃と思われる、南町をとらえた古写真です。高い位置から俯瞰(ふかん)のアングルで撮られていることを考えますと、おそらく財光寺地区にある定善寺(じょうぜんじ)付近から撮影したものと考えられます。なお、定善寺はもともと「財光寺」といい、その名前が財光寺という地名の由来ともいわれています。

それでは、写っているものを紹介していきます。


1.【富高小学校】:明治初期、5つの小さな学校を統合。幾つかの場所を転々とし、明治18年に中原<なかばる>地区に茅葺きの新校舎を新築。中原にあった頃は通称「中原小学校」ともいわれていました。明治24年に本町の大きなキャンパスへ移転し、昭和30年5月頃まで約60年間この写真の場所にありました。大正期頃までは平屋だった校舎ですが、昭和5年にこの2階建ての校舎が完成しました。これほど立派な校舎は、県下でも珍しかったとのことです。写っているのは第1棟の正面の2階部分で、そこには放送室がありました。全部で4棟の校舎がありましたが、昭和20年8月と9月に襲来した巨大台風によって、そのほぼ全てが倒壊してしまいました。その後、昭和30年に現在の草場地区へ移転するまでは平屋の急造校舎を使用しました。

2.【岡村病院】:大正元年、岡村先生が南町に開業しました。昭和2年、県北で初めての保険組合病院となったこの病院は、内科、外科、眼科、耳鼻科など幅広く対応できる総合病院としてたいへん頼りになる存在でした。裏手には、細長い2棟の病棟を備えていました。表通りに面した病院部分は、玄関脇に1本の大木がシンボル的に植えられており、外観は薄い青色(ライトブルー)の色合いだったそうです。その後、岡村病院は終戦前後に、花輪先生を中心とした「花輪病院」(はなわびょういん)となり、さらに病院としての役割を終えた後の昭和30年頃になると南町アパートとして活用されました。なお、元々この土地に建物は立っておらず、明治時代まで長い間田んぼだった場所でした。

3.【伊豫屋呉服店】(伊豫屋旅館 / いよやりょかん):明治末に愛媛県から日向にやってきた方が始めた呉服店。大正2年にこの南町の角地にオープンし、1階を呉服屋、2階を旅館としたところ大繁盛となり、翌年には裏手に新たに旅館を増築するなど、しばらく呉服店と旅館業の二刀流で営業していました。また、ここは昭和の初め頃は「割烹よろず」という宴会場でもありました。前出の岡村病院と、この伊予屋さんが建ったことで、間を埋めるかのように次々と商店が立ち並ぶようになり、それまで南町のはずれでうら寂しい印象だった塩見橋の北袂付近はにわかに賑やかになったといわれています。なお伊予屋呉服店は昭和に入って呉服店単独となり、中町を経て本町方面に移転しています。

その後、この角地は昭和17年頃より戦後にかけて「富島運送」となり、また昭和後期から平成初めにかけては日米商会のガソリンスタンドになるなど、様々に変遷を遂げました。最近ではセブンイレブンとなっています。

蛇足ですが、かつて伊予屋呉服店の北並びには斉藤畳店(大正元年創業)、その隣に笠原呉服店(大正5年頃に創業)と、老舗が連なっていました。これら店舗は南町の土地区画整理事業による道路拡幅工事が行われる平成初頭まで永らく営業していました。また、伊予屋の北隣(のちの斉藤畳店の付近)には、その昔「衛藤一哉」氏という方が住んでいました。明治33年に写真屋を開業したこの方は、富高地域で初めて写真を生業(なりわい)とした方として知られています。

4.【石川うどん】:塩見川の中に足場を建てて作られています。石川さんがやっていたうどん屋さんで、実はちゃんと名前があったらしいのですが、それを覚えている人はいません。そのため便宜上、石川うどんと記載しました。

5.【徳島楼】(とくしまろう):石川うどんと同じく、川の中に立っている建物で、芸者さんによる三味線や踊り、そしてお酒が楽しめる芸者屋と呼ばれた店でした。同じ付近にあった有楽亭、愛知楼と並んで「三大伎楼(ぎろう)」などともいわれます。三つの遊郭の中ではおそらく最後まで営業した店で、建物自体は昭和20年の終戦前後まであったようです。その頃は1階部分が畳屋さんだったといわれています。

6.【有楽亭】(ゆうらくてい):一説によると、この有楽亭もまた足場が川の中にあった風流な造りだったといわれています。こちらは塩見川ではなく、その支流である「富高川」に面していました。ここから富高川を少し北へ上ると、川の真ん中に中州(砂の堆積した島)があり、そこは「宝蔵ヶ島(ほぞがしま)」と呼ばれていました。十五夜祭りのみこし練り歩きの際に立ち寄る神聖な場所の一つで、神主さん等が川に入っていき、その島で祈祷する習わしがかつてはあったようです。宝蔵ヶ島は昭和20年代前半頃まではあったようですが、自然にできた砂地であったがゆえに、水に流されていくうちに次第に小さくなり、いつしかみられなくなってしまったそうです。

7.【愛知楼】(あいちろう):遊郭が隆盛を極めたのは、第一次大戦の好景気に沸く大正時代の半ばだったといわれています。おそらく富高の三大妓楼も、その時期に出揃ったのではないかと思われます(これは想像です)。その当時、椎葉の材木商のお金持ちが富高で豪遊した際、この三軒をハシゴして、すっからかん(無一文)になって帰っていったという逸話があります。なお、この写真の昭和10年当時はそのような明るく景気の良い話はあまりなく、近くの財光寺に海軍飛行場が完成するなど、戦争の足音が少しずつ近づいてきている時期でした。愛知楼そして有楽亭も、建物自体は写っていますが、この時期まで営業していたかどうかは定かではありません。

8.【塩見橋】(しおみばし / ※矢印は「馬除け場」の部分):江戸時代前期、塩見川には既に橋が存在していたといわれています。しかし宝永年間(1704年~1710年)に津波によって失われ、以降100年以上にわたり塩見川に橋が架けられることはなく、そのあいだ人々はもっぱら「渡し舟」を使って行き来していたため、この南町と財光寺をつなぐ場所は長らく「渡し場」(わたしば)と呼ばれていました。江戸時代の後期(文政7年/1824年)に、時の日田代官・塩谷大四郎(しおのや・だいしろう)の命令で、現在の橋の原点となる「塩見橋」が架けられました。ただし現代の頑丈なコンクリート製とは異なり、この木造橋の時代は(立派な造りではありましたが)、台風などの自然災害でたびたび損壊・流失しており、そのつど修繕されたり架けなおされているようです。木造橋時代の特徴として、中央付近に2か所ある「馬除け場」(うまよけば)の存在が挙げられます。馬が交通手段の一つだった時代、馬とすれ違う際の避難場所として重要なスペースだったようです。なお、塩見橋は昭和27年にコンクリート製(永久橋)となり、さらに平成13年(2001年)現在の橋へとリニューアルされています。現在の塩見橋にも、かつての「馬除け場」をイメージさせる休息所ポイントがあります。

9.【富高橋】(とみたかばし):昭和9年の年末に完成したコンクリート橋。この写真の中では最も新しい建造物といえます。これが写っていることから、この写真が昭和10年頃ではないかと想像できるのです。それまでは、この南町(みなみまち)と中原(なかばる)をつなぐ橋は存在しませんでした。ここから塩見方面へ進むと「朝日橋」がありますが、それも富高橋と同じタイミングでコンクリート橋として新たに架橋されています。それまで東郷町や美郷町(南郷村、西郷村、北郷村)といった入郷方面の方々が日向を訪問する際は、北西にある橋「高見橋」(たかみばし)を渡って横町(よこちょう)へ進入し新町(しんまち)の大通りへ出る~という定番のルート以外に通行する方法がありませんでしたが、これら2つの立派な橋ができたことによって選択の幅が広がりました。富高橋の架橋は、人の流れが大きく変わっていく転換点となりました。なお現在は、橋に出入りする「親柱」部分に、ひょっとこのデザインがあしらわれており、「ひょっとこ橋」の愛称でも親しまれています。

10.【国鉄線路】:大正10年に国鉄「富高駅」が開業し、鉄道の時代が到来しました。富高小学校のグラウンドの東側に線路が通り、蒸気機関車(汽車)が走行する姿は子供たちにおなじみの風景となりました。それ以前、矢印の場所(現在の中央公民館の辺り)には、おそらくですが大正時代の半ば頃まで「天神山」(てんじんやま)という山がありました。地元民はここを「天神さん」と呼んでいました。十五夜祭りのみこしが町中を練り歩く際は、いったん天神山へ立ち寄り、その頂上でお参りをしてから再び市街地へ戻っていくという風習があったようです。

明治時代の終わり頃、天神山の頂上には芝居小屋があり、「小虎丸(ことらまる)一座」「〇〇花一座」など旅芸人がよく訪れていました。近くの木々に布をかけて覆い、そこを芸人の着替えスペースにしていました。芝居を終えたあと、旅芸人たちは地元の子供に踊りを教えて交流を深めたり、夜になるとその芝居小屋で寝泊まりしていました。また、自然あふれる天神山には大きなカシやウドの木がたくさん生えていて、その大木の一つにおおきな洞穴(ほらあな)があり、そこにタヌキの親子が住み着いていました。親子はご飯を求めに、夜な夜な人里へ降りてきていたそうです。ある商家の娘さんが、家の裏口から夜中にゴソゴソと音がするので、気味が悪いと思いながら恐る恐る覗いてみると、残飯をあさっているタヌキと思わず目が合った~などという昔話も。そんな天神山はもうありませんが、中央公民館付近の通りは「天神通り(てんじんどおり)」「天神山 通線(つうせん)」などと呼ばれており、名前だけが残されています。

なお、その北方向には通称「うさぎ山(やま)」と呼ばれた、こんもりとした円墳状のかわいらしい山もかつて2つほどありました。子供が遊ぶにはちょうど良い大きさの山で、現在のU家具店付近に大きいほうが、B堂文具店付近に小さいほうがあったそうです。明治時代の子供たちは、友達と一緒にその山の頂上で「ござ」を敷き、風呂敷を広げて弁当を食べたりとピクニック気分を味わったといいますが、それら思い出の地もまた後年の耕地整理のため無くなりました。

<おわり>


【参考・引用文献】

「日向市の歴史」甲斐勝/編著,日向市総務課市制二十周年事務局 1973

「日向市史 通史編」日向市史編さん委員会/編 日向市 2010

「日向市の年表」日向市史編さん委員会/編 日向市 2010

「移り変わる郷土と私」吉田幸保/著  1971

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