【富高地域 アイスキャンデー屋 分布図】

【富高地域 アイスキャンデー屋 分布図 (外観画像と解説)】

富高地域における「アイスキャンデー」は、北陸地方からやってきて昭和10年に本町で営業を始めた「のざわ」にその起源をみるといいます(※参考文献:夕刊「新都タイムズ」1982年版)。その後、終戦を迎えると製造・販売する店が増え始めました。昭和30年代に入り、スーパーや小売店で大手企業の「アイスクリーム」商品が流通するようになるまでは、地域の食堂や地元の各企業によるオリジナルのアイスキャンデーが町民・市民に親しまれました。各店舗の手作り商品だったため、風味がそれぞれ異なり、とりわけ「のざわ」のキャンデーは美味しいと人気であったといいます。

「のざわ」店舗は戦前の開店当初から十年ほど長友歯科の向かいにありましたが、戦後の昭和21年にやや南へ移転。佐藤医院の斜め向かいに位置するその場所(※大正~昭和初頭頃まで須本屋旅館だったと思われる土地)で、平成半ば頃まで長く営業されました。アイスキャンデーの店として出発した「のざわ」でしたが、その時期になると料理にも力を入れ始め、食堂や仕出しの店としても存在感を示すようになります。(市役所の近くであったため、役場職員から昼弁当の注文も多かったようです。)

終戦直後、特に昭和20年代前半頃は「砂糖」が満足に手に入らなかったため、その頃のアイスキャンデーは人工甘味料・サッカリンによる味付けがなされたものだったと思われます。また当時のキャンデーはとにかくカタかったということです。味わいがどうというより、とにかく冷たくて甘くて硬いもの、それが終戦直後のアイスキャンデーのイメージだということです。

味は同じなのですが色の種類が幾つかあり(赤、黄など)、例えば「のざわ」のオバチャンにキャンデーを頼むと「どれ(どの色)がいい?」と選ばせてくれたようです。「私はいつも赤色のを頂戴、と頼んでいました」とおっしゃる方も。お店の方は、缶の中からカラカラと音を立てながら取り出してくれました。食べた後は舌の色が染まって、皆で笑いあったりもしました。(※一部では、あずき入りのキャンデーもあり、価格はやや高めだったとの事です。「のざわ」では普通の物が5円、あずきの物が10円であり、やはりあずきバーのほうが美味しかったというのは古老の話です。但しこれを記憶している方は多くないため、あくまでも参考意見にとどめます。)

意欲的に商品開発をおこなう「のざわ」は、昭和20年代末頃には柔らかく乳成分を含んだ新商品(アイスクリーム、またはソフトクリームに該当。カップに入れて提供された)も販売していたとのこと。またここはテイクアウトも出来た店で、遠く入郷方面からやってきたお客さんも、アイスキャンデーという珍しい氷菓子をお土産として持ち帰ることができました。その際は商品を入れる「木の箱」の中に「おがくず」を敷き詰めることで、長時間の保冷を可能にしていたようです。

富高の町では、荷台の箱にアイスキャンデーを積み、そこに旗を立てて、チリン~チリン~と鈴を鳴らしながら自転車で移動販売をする風景が、昭和30年代頃まではおなじみでした。「長友飲料」では高校生がそのアルバイトをしていました。鈴の音を聞いた子供たちは一目散に駆け付け、キャンデー屋の周りにはアッというまに人だかりができたといいます。他には「ムサシ屋」さんもこうした自転車による移動販売を実施していたようです。

ー終わりー

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【蛇足:「アイスケーキ」と「アイスキャンデー」について】

現在、アイスケーキといえば洋風ケーキをアイスクリームで再現したような商品ととらえがちです。しかし戦前(昭和初期)のアイスケーキはそういった高度な技術を必要とする商品ではなく、いわゆるアイスキャンデー相当の商品を「アイスケーキ」と呼んでいたと思われます。

宮崎市内の街の成り立ちを分析した本「浮上する風景」に、戦前の宮崎新聞の記事の引用があり、そこには「アイスケーキを横ぐわえのお嬢さんが通る」と昭和9年頃の宮崎市内の情景が描かれているそうです。アイスケーキは手に持って食べる「棒アイス」(アイスバー)タイプの商品であり、すなわちアイスキャンデーと同じ意味だったと考えられます。

定かではありませんが、戦前までの「アイスケーキ」という呼称はなぜか西日本で多く見られるように思われます。また、アイスケーキは「ケーキ」、アイスキャンデーは「キャンデー(キャンディ)」と略されたりするようです。

では富高地域の場合をみていきますと、昭和10年~13年頃に富高駅前通りをとらえた写真に、「アイスケーキ」の看板を掲げている店が確認できます。源屋旅館の玄関先に存在したこの小さな菓子店はおそらく数年程度の短期間営業だった可能性があります。前出の「のざわ」さんが昭和10年創業であり、地元の古老への聞き取りでも、のざわさんが富高新町では一番古いことが確認されています。ただし、のざわさんで商品を購入したユーザーからは一貫して「アイスキャンデー」との名称が出てくることから(また「アイスケーキ」という呼び方は知らないとの証言もあり)、少なくとも戦前の富高においてはお店それぞれでアイスケーキとアイスキャンデー、いずれの名称も存在していたものの、町民にはキャンデーの呼称で浸透していたと考えられます。

他地域について、幾つかの写真集で確認しますと、昭和30年頃の北方町で撮られた写真に、「アイスケーキ」と「アイスキャンデー」が併記された冷凍ショーケースが確認できます。また、昭和29年の京町での撮影写真において「アイスキャンデー」と「アイスクリーム」が併記された看板がみられます。いずれもたいへん興味深い写真で、当時の方々は「氷菓子(氷菓)」を一体どのように呼んでいたのか、様々な想像力をかきたてられます。また昭和30年頃の野尻町の写真には看板に「アイスクリーム」と明記されているものがあり、それまで砂糖や甘味料だけのストレートな甘さであった氷菓(アイスキャンデー)が、乳製品を用いた風味豊かな商品(アイスクリーム)へと進化を遂げていく端境期がこの昭和30年前後であろうと思われます。(あくまでも宮崎県の場合です。)

余談ながら、戦前の美々津において、アイスキャンデーだけでなく「アイスクリーム」の販売もあったようです。その前に、戦前当時の美々津の代表的なアイスケーキ屋・林商店を少し紹介しますと、ここはアイスケーキと焼き鮎を販売していました。店先では店主が開いた鮎を焼く光景がみられたそうです。この店でのアイスケーキすなわちアイスキャンデーの製造方法をみていきますと、原料の砂糖水を入れる型があり、穴に液を流し込んで棒をさし、冷やすための特殊な液体(?)にその型を漬けて凍らせます。できたら1本ずつ引き抜いて取り出し、別の冷凍庫に保管。アイスケーキには色がついており「いちご色」(赤色)など幾つか種類があったといいます(これは富高地域におけるアイスキャンデー店でも同様です)。さて、アイスクリームに関しては店舗販売ではなく、行商の方(移動販売)が売りに来ていたといいます。製造機には中央部分と外郭に氷を入れる場所があり、その間に材料を流し込んでレバーで撹拌しつつ冷やしていた模様。その場で手でグルグル回して固める場合もありましたが、ある程度完成してから売りに来ていたのではないかとの事。小さな三角コーンの様な、変わった形状の棒に、アイスクリームを塗りたくって盛り付けるかたちで提供されたとの事。昭和10年頃、アイスケーキ1銭に対して、アイスクリームは5銭。現在のような濃厚なバニラ味には及びませんが、卵と練乳が使われていたと思われるそのアイスクリームにはほのかにミルク風味が感じられ、それがえもいわれぬ美味しさに感じたといいます。<終わり>

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<終わり>

日向市・宮崎県の画像倉庫と昔語り(古い写真・昔の写真・懐かしい写真~富高・細島ほか)

日向市(主に富高、細島)をはじめとする宮崎県の古い写真・懐かしい写真を掲載する画像倉庫です。現在は昔語り(テキスト部分)も多めになっています。 画像展示メインの記事は、基本的には当方が撮影・所有するオリジナル写真で構成していきます。しかし歴史語りメインの記事は、一部、書籍・文献からの抜き出しや、戦前の絵葉書の使用もありますことをご了承ください。

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