【日向市内の風呂屋事情(富高を中心に、美々津・細島)】

【戦前の銭湯事情(大正~昭和初期)】

●港町・美々津では、昭和5年10月に放浪の俳人・種田山頭火が同地を訪問した際「共同浴場(銭湯)にはいって人々と話をかわした」ことがわかっています(夕刊紙「新都タイムズ」昭和58年にて紹介)。また、地元の古老の話によると、同じく昭和ひとケタ時代の美々津には芸者屋が幾つか存在していて、午後3時頃になると出勤前の芸者さんが共同浴場に「湯あみ」(入浴)をしにきていたようです。彼女たちが置屋(おきや)に戻る際、町の通りに「おしろい」の良い香りが漂って、子供たちはウットリしていたそうです。名称や数などは不詳ですが、昭和の初め頃の美々津にはそうした共同の浴場が存在していたようです。

●富高地域に関しては、昭和初期から終戦頃までの銭湯事情がよくわかっていません。(その時期、一時的に無くなった可能性もあります。)ただそれ以前、おそらく明治後半から大正時代にかけて、風呂屋が少なくとも1軒あったようです。新町の大通りに面した場所で、「正念寺の参道」から「陣屋の表門」までの中間くらいにあった「須本屋」という店、あるいはその付近に隣接する建物が風呂屋だった可能性があります。その風呂屋の裏手には芝居小屋があり、よく芝居がかかっていたとのことです。中町のこのエリアは当時の南町~上町に及ぶ「富高新町」商店街の中心部に位置しており、風呂屋や芝居小屋といった人の集まる施設を設置するにはうってつけの場所だったといえます。<※注:明治後半~大正時代、この周辺には「須本屋」という同じ屋号の店が多く、廻船問屋だったり旅館だったり唐津屋(陶器商)だったりと様々に存在しました。この風呂屋さんも、そんな須本屋の中の1軒だったと思われます。>

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【戦後の銭湯事情(昭和20年代以降)】(検証編)

●「夕刊 新都タイムズ」のコラム「あの町この町」南町編・第23回(昭和58年)の記事を引用しつつ、日向市における銭湯事情を探ってみます。

『①戦前はたいていの家で内湯はなく、ほとんど銭湯を利用するのが常(以下略)。

②(前略)なんといっても銭湯が普及したのは江戸時代。(中略)しかし地方城下町にはかなりおくれ、高崎<群馬県>では寛政年間以降と同市史に記述されているのでおそらく富高、細島には江戸時代に一軒あったかないかていどであろう(以下略)。

③南町だるま湯が創業した昭和二十八年ごろが最も多く、昭和三十年代のはじめ、県内の浴場数百九十五軒。日向市内十四軒、それが四十三年に十一軒、四十六年に八軒と減少、いまではだるま湯、旭湯の二軒のみとなった。』(引用ここまで)

・・・まず①ですが、富高地域の昭和ひとケタから終戦までの世代に聞き取りをすると、この周辺は内風呂(うちぶろ)のある家は多かったので銭湯へ行く習慣はあまり無かったのでは、という回答を複数から得ました。前述したように、昭和初期に富高地域に銭湯の痕跡を確認できなかった理由がこの辺りにあるのではないかと思われます。ただし貸家の中には入浴設備のないところもあったはずで、そこに暮らす人々がどのように対応していたのかは不明です。(※あくまでも戦前の富高周辺に関する特徴です。ただし戦後になると、人口の流入や増加に伴って需要が喚起され、だるま湯など新規の銭湯が幾つか建設されていきます。)

・・・次に②の記載について見ていきますと、前述したように富高地域では大正時代頃に1軒の風呂屋(須本屋?)の存在を確認できましたが、それ以外の目立った情報が無いことから、やはり富高地域も他の地方と同じく銭湯の数はそれほど多くなかったことは間違いないと思われます。

・・・③に関しては、日向市の昭和30年地図、昭和42年地図などと照らし合わせながら検証していきます。

 まず「昭和三十年代のはじめ(中略)日向市十四軒」とありますが、この数はいささか多く感じます。昭和30年の地図で確認すると、富高地区においては梅の湯・藤の湯・だるま湯の3つが確認できます(旭湯はまだ無い)。細島地区では「風呂屋」と書かれた物件が2か所(漁協の東側付近と、もう一軒は高鍋屋の二軒西隣)にみられます。美々津地区には直截的に風呂屋と書かれた場所は見当たりませんが、存在した可能性はあります。とはいえ、14軒という数には到底及びません。この14軒という数は、銭湯だけでなく、「内風呂を備えた旅館」も数に含まれているのでは?と思われるのですが確証はありません。

 次に「四十三年に十一軒、四十六年に八軒と減少」と昭和40年代の変遷を記した部分ですが、まず富高地域でみてみますと、おそらく昭和30年代~40年にかけて「旭湯」が加わりますが、昭和48年には「梅の湯」が無くなる、といった変化が見られます。また細島地域では昭和30年初頭にあった商業港付近の2軒の「風呂屋」が無くなり、昭和42年の地図で新たに「吉野湯」(細島駅付近)を確認しますが47年までにはそれも無くなっています。日向市全体において、銭湯の数に限って言えば、昭和48年地図の段階で富高地域の3軒(藤・だるま・旭)を確認するのみ、となっています。(※地図上で確認できないものの、実際は入浴場として機能していた店舗が市内のどこかにあったかもしれません。)

・・・検証は以上です。

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【富高:戦後の銭湯事情(昭和20年代以降)】(各店舗の紹介編)

★<昭和時代の個人経営のお店>**********

①「だるま湯」(だるまゆ/南町):昭和28年~平成13年頃迄。戦後からスタートし、約50年の長きにわたり営業されました。映画好きのご主人が、閉業した近所の映画館(文化会館?)から映画のポスターを大量に譲り受け、それらが店内に貼られていたといいます。平成10年代の土地区画整理事業を機に、クローズされました。個人経営の店として、商店街の中で営業された最後の銭湯でした。

②「藤の湯」(ふじのゆ/上町):S30年地図にあり。→昭和50年代半ば頃?にクローズ。

③「梅の湯」(うめのゆ/上町):S30年地図にあり。→昭和47年迄営業。「八幡通り(はちまんどおり」沿いの銭湯であり、建物の土地付近はかつて稲荷神社があったと思われる由緒ある場所でした。

※②と③の建っていた場所はもともと商店街の裏側に位置するのどかなエリアで、戦前までは田畑が広がっていただけの土地でしたが、戦後になって人口の増加とともに家屋が次々と立ち並ぶようになり、「銀座通り」や「八幡通り」といった歓楽街へと発展しました。また、上椎葉ダム(昭和30年完成)の工事が昭和25年以降に開始されていますが、それに従事する労働者の一部が日向市からも加わっていたと思われ、彼らが日々の汚れを落とすためにも銭湯の存在は必要不可欠だったと考えられます。そうした諸条件を踏まえると、おそらくいずれの店舗も創業は昭和20年代ではないかと思われます(これは想像です)。

④「旭湯」(あさひゆ/原町):昭和40年前後??~平成元年頃迄営業。昭和40年代後半以降の地図では「旭浴場」と記載。国道十号線の東エリア、下原町区にあった銭湯。地図上では、昭和30年に記載がなく、42年にはあるため、おそらく昭和30年代~40年頃までにはオープンしていた可能性があります。下原町区はそれまでは広大な田畑が広がり人家はまばらな土地であり、国道の建設が開始された昭和30年頃以降に急速に家屋が立ち並び人口も増加していった経緯があります。

★<平成時代の大規模店舗・郊外型店舗>*******

⑤「日向ひょっとこの湯」(財光寺):1998年~2011年迄。国道十号線沿いにあった、スーパー銭湯タイプの大規模店舗。同敷地内に「カラオケ・ひょっとこクラブ」が併設されていました。

⑥「日向サンパーク温泉 お舟出の湯」(幸脇):2002年7月1日~2020年9月30日迄。日向市の第三セクター。店内に「レストラン潮音(しおね)」。週末に落語の「定期寄席」など各種イベントも開催されていました。また店内入り口付近には日向市で春季キャンプを実施していたプロ野球選手などスポーツ関係者のグッズが展示されていました。地階部分に下りていくと、日向灘を一望できる浴場や広い座敷、売店などがありました。売店では地元生産者による食品を扱っていたほか、健康飲料コーナーもありました。大浴場(露天風呂、内湯、サウナ、洞窟風呂)のほか家族風呂もあり、そこには障碍者向けの介護用リフトも備えてありました。なお入浴料は大人(中学生以上)550円・こども(4歳~小学生)300円・3歳以下は無料(※閉館直前の2020年時点)でした。

<終わり>********************************

<おわり>**************

日向市・宮崎県の画像倉庫と昔語り(古い写真・昔の写真・懐かしい写真~富高・細島ほか)

日向市(主に富高、細島)をはじめとする宮崎県の古い写真・懐かしい写真を掲載する画像倉庫です。現在は昔語り(テキスト部分)も多めになっています。 画像展示メインの記事は、基本的には当方が撮影・所有するオリジナル写真で構成していきます。しかし歴史語りメインの記事は、一部、書籍・文献からの抜き出しや、戦前の絵葉書の使用もありますことをご了承ください。

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