【富高地域 呉服店 分布図(江戸・明治~大正まで)】

江戸時代あるいはそれ以前において、日向で早くに栄えた地域といえば、細島や美々津といった港町だったといいます。

富高の場合は江戸期の半ば、富高陣屋の設置が契機となって、富高新町(とみたかしんまち)の街並みが充実していったといわれています。この富高地域は東郷町や美郷町といった「入郷(いりごう)」からやってくる人々が必ず通るエリアであり、地元民だけでなくそのような近隣地域からの買い物客も多くいたことから、町は大いに賑わいを見せていたようです。

中でも高見橋(たかみばし)を渡った先にある「横町(よこちょう)」(※南町の一部の通り)と呼ばれた通りは、幕末~明治・大正期にかけていちばんの繁華街でした。郷土史家で、明治30年代後半生まれの吉田某氏の記述によると「その当時(明治の末期)旅館も呉服屋、小間物屋も横町にしかなかった。」とのことです。(「移り変わる郷土と私」より引用)。そのころ入郷からやってきた方が「どうしてこの町はこんなにお店が左右に隙間なく立ち並んでいるのだろう?」とビックリしたそうです。呉服店や小間物屋といった、高級で華やかで憧れのお店がたくさん並んでいる横町の通りは、地方から出てきた人の目にはたいそうまぶしく映ったことでしょう。

それまで横町にしかなかったといわれる呉服店でしたが、大正初期、南町の南端エリア(塩見橋の北袂)が賑わうようになると、四国からやってきた人がその付近に呉服店を建てました。また、大正半ばになり上町が次第に北方向に延びていくと、今度はその近辺に新たな呉服店ができるなど、時代の移り変わりとともに呉服店もまた様々な変遷を遂げていきます。

ここでは、そのような明治期の「横町」全盛期から、大正期・昭和初期の「新町大通り」へ賑わいが徐々に移っていく中で営業していた、代表的な「呉服店」をみていきます。

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<江戸・明治期からの呉服店>

●「菊 屋 呉服店」:富高新町(とみたかしんまち)における有名な呉服店の筆頭といえるのが菊 屋(きくや)さんです。南町(みなみまち)にある繁華街・横町(よこちょう)にあった呉服店。この家は何百年も前から代々、地元の名士であり、それまで様々な品物を扱っていたようです。明治期、呉服店であった頃の当主であられた某氏は大正12年から昭和初頭まで「消防組」の組頭を務められたりと、様々な地域活動に大きく貢献されたようです。

大正9年頃の写真で、こちらのお店付近で十五夜祭りの屋台が撮影された一枚があるそうです。それを見たことがある人によると、屋台のバックに写っていた建物には「菊 屋商店」と書かれた看板が掲げられていたようです【店商屋菊(万)】。

古老によると、ここは新町で荷車(にぐるま)を一番最初に購入した家という話があります。当時は物珍しさに見物にやってくる人もいたほどだそうです。「荷車」自体は江戸時代からあると思いますが、富高は新しい文化がやや遅れてやってくるケースが多々見られます。荷車や人力車、馬車といった「車の文化」がこの富高地域に到来したのは西南戦争(明治10年)が終わって町が落ち着きを取り戻した数年後以降といわれていますので、このエピソードも明治10年代なかば、あるいはそれ以後の事でしょうか(これは想像です)。

また、「日向市の年表」には、大正14年11月「富高町渡邊氏がラジオの取り付け試験を夜、菊 屋 呉服店で行う」とあります。渡邊氏の詳細は不明ですがおそらく新町在住の方なのだと思います。NHKの前身組織が電波による試験的放送(1925年=大正14年3月)を経て、本放送を開始したのが大正14年7月。翌大正15年にNHKが発足し、さらに翌年以降、地方4局での放送も開始されています。この地方局の中に1928年(昭和3年)6月開局のNHK熊本放送局が含まれていることから、宮崎県民はこの熊本からの電波をひろうことでラジオを聴取することができていたと考えられます。<※なお地元の「NHK宮崎放送局」が開局し、ラジオの本放送を開始したのは約10年遅れて1937年(昭和12年)4月のことでした。>。国営の放送局がまだ満足のいく状況でなかった大正14年の段階での、菊 屋さんにおけるラジオ聴取実験の詳細については不明ですが、この世紀のイベントに関心を寄せる町民が菊 屋さんに多く集まり、かたずをのんでその様子を見守ったことは想像に難くありません。おそらくこの建物は単なる商店の域を超えて、町の集会所のような役割も果たしていたのかもしれません。

●「萬 屋呉服店」:横町から南町の大通りに向かってカーブを描き始める辺りに存在した呉服店が萬 屋(よろずや)さんです。創業の詳細についてはわかりませんが明治期には存在していました。横町の活気が失われつつあった昭和20年代頃は新町大通りに面した「まるや」さんの店頭の一角を借り、中町に出張所を出すなど意欲的な営業を展開されました。

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<大正期からの呉服店>

●「伊 豫 屋呉服店」:大正2年に、塩見橋の北側角地(かどち)にオープンしたのが伊豫 屋(いよや)さんです。2階部分が旅館になっていた人気店で、この南町エリア隆盛のきっかけとなりました。(※下方のモノクロ写真はその南町にあった初代店舗)。伊 豫 屋さんは昭和初頭になると中町へ、さらに戦中戦後は上町へ進出されました。なお、その後中町のお店の建物は大 江 荒物店に、上町のお店の建物は昭和30年代なかばよりスーパーの店舗(「延 岡 スーパー」→「スーパー モ リ」)となりました。

●「笠 原 呉服店」:大正初頭、南町に岡村病院や伊 豫 屋呉服店が開設されたことで、塩見橋の北袂(きたたもと)エリアに人の流れが出来、お店が立ち並ぶようになりました。町が賑わいをみせていた大正9年にオープンしたのが笠 原(かさはら)呉服店さんです。大正、昭和、平成初頭まで永く営業されました。

●「エ ビ スヤ呉服店」:町の勢いが南町から北方面へ移りつつあった大正時代なかば。新興店舗が増えて徐々に活気が出てきていた上町に大正7年頃オープン。(※当時は上町でしたが、のち昭和に入って区分が変わり現在は本町)。約40年にわたり営業されたようです。(参考文献:「日向写真帖」)。

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(第一部 / 終わり)

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<追記(第二部):昭和期の呉服店 編>

定かではありませんが、概ね「昭和期」創業と思われる富高地域の呉服店を最後に幾つかご紹介して、この項を終えたいと思います。あなたは幾つわかりますか?。

●「市 木 呉服店」:本町。(場所:①内 山 洋品店の南隣(S30年地図時点)→②富 高 薬局の東隣→③旭通り)。●「大塚呉服店(大塚洋服)」:中町。土 谷 薬局の南隣(S30年地図時点)。S20年代頃~60年代頃?。●「西岡呉服店」:中町。正念寺参道の南隣付近。S20年代のみ?。●「浜田呉服店」:中町。井手氷屋の北隣。S30年代~40年代のみ?。●「着物 の京 屋 日向店」:S30年代?~。上町。丁稚さんが自宅訪問し商品を説明、選んだ品物は京都へ送って着物に仕立ててくれる。●「古 谷 京染店」:中町→永江町。(①中町ブラザーミシンの北隣→②永江町。)●「喜 久 屋呉服店」:本町。etc・・・。

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(追記・終わり/全完)




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