各種資料にみる風景写真(幸脇編)及び昔語り集

●幸脇の市街地をとらえた古写真。美々津鉄橋が写っていることから、おそらく大正10年の美々津駅ー岩脇駅(現・南日向駅)間の開通の時期に撮られた一枚と思料。

<幸脇にゆかりのエピソード>

明治生まれの方々から聞いた、「幸脇(さいわき)」にまつわる逸話が、令和の現代にも伝わっています。その幾つかをご紹介します。

●「むかし幸脇に大きな木があり、その木にはウトが、ほげていました。(※ウトはウロともいい、木の洞穴のことです。)ある時、敵に追われてきた侍(さむらい)が、ついに追い詰められてウトの中に隠れたそうです。うまく敵をやり過ごした侍は、ウトに逃げ込んで助かった、これは幸いじゃった・・・と安堵しました。この幸いだったというエピソードから、この付近を幸脇と呼ぶようになったそうです。」・・・このお話の真偽のほどはわかりませんが、これは明治時代にお年寄りだった人が話してくれたものだそうです。今から百年以上前に、この昔語りを聞かせてくれたおじいさんが誰なのかは今となってはわかりません。

●美々津と幸脇の間を流れる耳川(みみがわ)周辺は、明治10年の西南戦争(せいなんせんそう)の激戦地でした。耳川を挟んで北側に西郷軍(薩摩軍)が、南側に官軍(政府軍)がそれぞれ陣を敷いて対峙しました。大砲を打ち合ったり、官軍が敵の陣地へ渡ろうと試みたりと、数日にわたって攻防戦が展開されました。その光景を見ていた、当時10歳くらいの少年がおじさんになって語った話によると「西郷軍は背中に刀を背負い、赤いふんどし一丁の姿で川を渡る作戦をとっていた。官軍の兵士が鉄砲で狙っており、途中で弾が当たって死んだ人もいた。しかし中には無事に渡りきって、背中の刀で官軍兵士を斬った人もいた。とにかく西郷軍は勇敢だった」との事です。これは、幸脇に住んでいる師匠の元で、職人としての修行に励んでいた”まるや”のご主人が、大正時代に幸脇で聞いた話です。そのころは、明治初頭の西南戦争を実際に見たり聞いたりしている住民がまだ多く生きており、こうした体験談を茶飲み話として日常的に語っていたようです。

(終わり)

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